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喪失と獲得

Essay

ブログを長く続けているとたまにはいいこともあるようで、あの@spring_maoが私の小説『ベンハムの独楽』を読んでくれた。

彼女はエッセイの中で語る。

「夢中で生きていると3年なんてあっという間の月日だが、立ち止まって、せわしなく動き続ける世界を見ているだけの1ヶ月は果てしなく長いものだ」

これはおそらくAppBankで働いた3年と、最後の1ヶ月を指しているのだろう。年が明けてから彼女のツイートが減り心配していたのだが、どうやら退職と就職の狭間だったようだ。

彼女はこう続ける。

「過去を変えることはできないが、これから何をするかということは自分で決められる。もちろん何をするのも自由で、好きに選べばいい。そうやって選んで掴んだものだけが、失ったものから自分を救ってくれるんだろうと思う」

この下りを読んで、私はニコラス・ハンフリーの本『喪失と獲得』を思い出した。

ニコラス・ハンフリーは英国の進化心理学者。『喪失と獲得』は小論集で、なかでもタイトルになっている「喪失と獲得」が飛び抜けて面白い。人は失うものがあるからこそ得るものがあり、だからこそ進化してきた。そんな論旨だ。

たとえば体毛と火の関係。人類の祖先は突然変異で体毛を失った。体毛がなくなって問題になったのは防寒だ。だからこそ人は暖を取るために火を発見した。

たとえば記憶と抽象化の関係。人類の祖先は図形に対して並外れた記憶力を持っていたが、あるとき突然変異で記憶力が衰退した。だからこそ人は法則を見つけたり数字で考えるようになった。抽象化することで記憶力を補ったのだ。

ホーキングは病気で文字を書く能力を失った。紙の上で代数的な数式を使うことができなったため、心で描く幾何学的な手法に頼ることになった。だからこそ代数では解明することができなかった理論を発見した。

アインシュタインは幼少期に言語障害があった。大人の見方を単純に受け入れることができなかった。だからこそ子供のような問いを発し続け、空間や時間の法則を発見した。

@spring_maoがAppBankで失ったもの。それはプライドなのかもしれない。コスプレをして動画や映画に出るのは、楽しい面もあったと思うが、本当の姿ではなかった気がする。

だが、AppBankにいたからこそ得たものもあるはずだ。動画があったからこそ沢山のファンを獲得した。退職ツイートに対するリプライを見ていると、彼女が多くの人に愛されていることがわかる。

私が『喪失と獲得』という名著に出会えたのは、インフルエンザに罹って自宅療養していたからだった。@spring_maoが『ベンハムの独楽』を読んでくれたのも、退職間際の1ヶ月があったらからかもしれない。

人生にマイナスなんてない。喪失感があるからこそ獲得することができる。不全感があるからこそ補完することができる。人類もそうやって進化してきたし、個人もそうやって進化していくはずだ。

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体

喪失と獲得―進化心理学から見た心と体