無意味の意味 - 『断片的なものの社会学』を読んで

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 家で偶然、映画の割引券を見つけた。1800円が1000円になる割引券で、これはお得だということで『虐殺器官』を観に行った。その日は家族が車を使っていたので、私は独りで自転車で出かけた。映画が終わると陽が落ちていて、風が冷たく突き刺さった。家に帰る途中、なんとなく寂しくなって自転車のスピードを上げたら、縁石に乗り上げてタイヤがパンクした。パンクの修理代は800円で、映画の割引額が綺麗にゼロになった。

 ゼロはまるでドーナツの穴のような存在だ。ドーナツの穴は何も無い空間だが、穴がないとドーナツにならない。ゼロも同じで、ゼロがないと次の数字がカウントできないし、いつまでたっても桁が進まない。ドーナツの穴もゼロも、実体は存在しないのに無いと成り立たない、不思議な概念だ。

 岸政彦さんの『断片的なものの社会学』が面白かった。

 岸さんは沖縄と被差別部落を中心に調査している社会学者だが、本書の対象はもっと広い。タクシードライバーやゲイ、風俗嬢や学生など、雑多な人たちへのインタビューを通じて、生活の先にある何かを見つけようとする。インタビューといっても語り手の物語をそのまま記録するのではなく、岸さんの身体を通して物語が紡ぎ出される。ノンフィクションなのにフィクションに近い。

インタビューの最初の質問は、海に潜るときの、最初のひと息に似ている。シュノーケルで浮いている状態から、深く空気を吸い込んで息を止め、お辞儀する要領で頭を勢いよく水面下に潜らせて、足を後ろに高く反らせ、そのまま一気に下まで沈んでいくときの、あの感覚。私は語りに導かれて、深い海の底まで沈んでいく。息を止めて潜っても潜っても底が真っ暗で見えない。
そして聞き取りが終わると、ゆっくりと水面に浮かび上がっていく。水面から顔を出して、大きく息を吸い込んで気がつくと、たったひとりで夜の海に浮かんでいる。こうして私は「この私」に還ってくる。
そして、そのとき、とてもさびしい気分になる。

断片的なものの社会学


 本書は17の断片的な物語で構成されていて、それぞれの冒頭に写真が掲載されている。おそらく岸さん本人が撮ったもので、本の表紙にも使われているようなスナップ写真だ。私はこの写真を見て、re:structureGood morning / おはよう世界が思い浮かんだ。

 お二人とも良い意味で素朴な写真を撮る。おそらく、ふとしたきっかけで目の前の光景が心に留まり、あまり構えず、ゆっくりとレンズを向けて撮っている。その写真は観念的で、本人にしか価値が分かりにくいものなのに、なぜか見る人の印象に残る。

 『断片的なものの社会学』のテーマもここにある。雑多な人たちの雑多なエピソードが、次から次へと流れてくる。それは他愛もないもので、本人にすら意味のないエピソードかもしれないが、岸さんの言葉を通して読むと、ぼんやりと観念が浮かび上がってくる。無意味の断片が集まると、意味を形成する。ゼロとゼロを足してもゼロだが、ゼロの集合は一つの意味なのだ。

自分のなかにはなにが入っているんだろう、と思ってのぞきこんでみても、自分のなかには何も、たいしたものは入っていない。ただそこには、いままでの人生でかき集めてきた断片的ながらくたが、それぞれのつながりも必然性も、あるいは意味さえもなく、静かに転がっているだけだ。〜中略〜
いつも私の頭の片隅にあるのは、私たちの無意味な人生が、自分にはまったく知りえないどこか遠い、高いところで、誰かにとって意味があるのかもしれない、ということだ。

断片的なものの社会学


 久しぶりに心が揺れる本に出会った。